海の唄 -ocean dreams- 「海にはお母さんが居るの。」 妹の亜麻禰(あまね)が言った。 「海に?」 「そうよ、お兄ちゃん。」 亜麻禰は自信ありげな表情で答えた。 「星空とか・・・天国じゃなくて、海なの?」 そう訊くと亜麻禰はにっこり笑った。 「違うわ。人は皆、海に還るの。だから、お母さんも海に還ったの。」 亜麻禰のこの言葉に深い意味があるとは思えなかった。 「そう。じゃあ、亜麻禰もお兄ちゃんもいつかお母さんに会えるんだね。」 僕がそう言うと、亜麻禰は力強く頷いた。 「でもね、お兄ちゃんはダメ。海嫌いなんでしょ?あんなに綺麗なのに。だから、亜麻禰は一人で海に行くの。」 あまりにも無邪気に言うので、冗談だと思いこんでいた。 「そっか。兄ちゃん、仲間外れだな。」 軽くそう返した。亜麻禰は歯をむき出して笑った。 「いいでしょ、亜麻禰はお母さんと一緒なの。」 そんな亜麻禰の頭を僕はいつもと同じように撫でた。
-3 years ago-
僕と亜麻禰は二人キリの家族だ。 父親は、今七歳の亜麻禰が二歳の時に知らない女と出ていった。 でも幸せだった。母さんが居たから。 僕は、父親が死ぬほど嫌いだったから。 父親は、僕や母さんだけでなく、小さな亜麻禰まで蹴り飛ばす非道い奴だった。 彼奴が居なくなってせいせいした。 だけど、僕が一六歳の時。 突然、彼奴はやってきた。 三年ぶりだった。 懐かしい気もしなくもなかった。 けど。 彼奴はただ金を借りに来ただけだった。 母さんは、それを断った。 そして・・・父親に、一度は愛した男に殺されたんだ。 鈍器で頭を殴られ、意識の薄れかかった母さんは言った。 「最後に海が見たい。波留喜、連れていって。」 家の外に出れば、すぐに海は見えた。 父親は、尋常でない母さんを眺めて、座り込んで叫び泣いた。 そんな父親には目もくれず、亜麻禰と一緒に、母さんを抱いて波打ち際まで走った。 外は月明かりのせいか、薄明るかった。 「海に映る月は綺麗だね。」 母さんは、呑気にそう言って笑った。 「お父さん、ここでずっと一緒に暮らそうって、こんな月明かりの夜にプロポーズしてくれたんだ。」 母さんは笑ってた。 亜麻禰が、僕のズボンを引っ張ってすすり泣く。 「波留喜、亜麻禰。お父さんを恨んじゃヤダよ。」 母さんはそれだけ言うと、僕の腕から滑り落ちて、波にのまれて永遠に逝ってしまった。 あっけなかったと言えば、あっけなかったが。 波にうたれる母さんの姿があまりにも綺麗で、涙も出てこなかった。 亜麻禰は、両眼から涙をこぼしつつ、唄を唄っていた。 母さんが好きだった唄。 海に映る月明かりの唄。 母さんは、死ぬまで海を愛した。 眼前に広がる大洋を。 「海深(あまみ)・・・。」 後ろから父親の声がした。 大洋(おおひろ)・・・彼の名前だ。 父親は、すぐに自首した。 自首するくらいの愛はまだあったのかと安心したが、母さんが不憫でやれなかった。 その日から、僕は海が嫌いになった。
-pass away-
亜麻禰が居なくなった。 何処を探しても居なかった。 会社から帰ってくると、書き置きが置いてあった。 『あまねは一人で海にかえるけどさみしくないから。』 「亜麻禰!」 狭い家中に響き渡る声で叫んだ。 焦って、部屋の隅から隅まで探し回る。 台所に、亜麻禰が作ったのか、まだ温かいシチューが置いてあった。 「亜麻禰!」 僕は必死に海まで走った。 海に還る・・・ きっと亜麻禰は海に居るんだ。 まだ間に合う。 亜麻禰が家を出てそんなに経っていないはずだ。 シチューはまだ温かかった。 「亜麻禰!」 空には月が出ていた。 海にも月が出ていた。 亜麻禰の姿は見当たらない。 波打ち際を探し回った。 亜麻禰は何処にも見当たらない。 広すぎるんだ。 海は。 これじゃあ亜麻禰に逢えない。 躓いて、波の中にパシャッと倒れ込んだ。 僕の顔半分を波が濡らす。それ以前に、僕の顔は涙でびしょ濡れだった。 「あま・・ね・・・。」 口を開くと、波と一緒に砂まで口の中に入ってきた。 吐き出そうとも思えないほど無気力だった。 僕もこのままココに居て・・・潮が引いてそのまま干からびて亜麻禰と一緒に・・・ そう考えたときだった。 「何してるの?お兄ちゃん。」 亜麻禰が僕の顔を覗き込んだ。 「亜麻禰・・・」 早くも自分は死んでしまったのかと思った。 「お兄ちゃん?」 亜麻禰は、屈み込んで僕の頬をパシパシ叩く。 「亜麻禰!?」 僕は体をサッと起こした。 「お兄ちゃん、こんなとこで何してるの?」 「お前・・・海に行ったんじゃ?」 「ココ、海でしょ。」 亜麻禰が訝しげな表情で言った。 「そうじゃなくて、海に還るって・・・。」 亜麻禰は僕の顔についた砂を払い落としながら微笑んだ。 「お母さんがね、寂しいんじゃないかって思ったの。そしたら、お父さんが来てね、『お母さんは、お父さんが居るから大丈夫だから、亜麻禰はお家にかえりなさい。』って。」 「お父さん?亜麻禰、お父さんの顔知らないじゃないか。」 「うん。最初は『おじさん』って言ってたの。そしたら、お父さんだって。そういえば、お兄ちゃんと似てたから。」 亜麻禰は無邪気にそう言う。 父親は・・・今牢屋の中のハズだが・・・。たった三年で出所ってコトもあるわけがない。死刑にはならなかったにしろ、まだ服役を果たしていないはずなのだ。 「それで、お父さんは何処に?」 そう訊くと亜麻禰は立ち上がって、海の月を指さした。 「あの辺。」 僕は、息をのんでその場に近寄った。 そこは、足がついて、やっと僕の首が出るくらいの亜麻禰にとっては深い所だった。 僕が近づいたことで、月が割れる。 割れ目から何かが見えた。 「父・・・さん?」 割れ目から、父の顔が見えた。 血の気を失って、目を閉じて。 どこか幸せそうな表情だった。 最後に父を見たのは何時だっただろうか。 あの時の父より優しげに見える。 頬が少し痩けていた。 無精ひげが邪魔ったるい。 動かない肢体は波に乗ってゆらゆら動く。 不意に後ろから体重がかかって振り向く。 「お兄ちゃんどうしたの?」 泳ぎが得意な亜麻禰が泳いでココまで来て、僕を捕まえたのだ。 「どうも・・・しないよ。」 そう、喉から絞り出して答えた。 「だって、お兄ちゃん泣いてる。」 亜麻禰に言われ、自分の顔を触ってみる。 頬を暖かいモノが伝っていた。 「お兄ちゃん、お父さんは海に還ったんでしょ?悲しくないでしょ?きっと、お母さんと海で仲良く暮らせるんだよ。きっと、幸せなんだよ。」 亜麻禰はにこにこ笑ってそう言った。 亜麻禰は死を理解していないのか。 いや、理解しているがそれを悲しいモノと思っていないのだ。 「亜麻禰・・・。お兄ちゃんは・・・」 説明しようと思って、やめた。 亜麻禰はきっとこのままで良いんだ。 だから・・・。 「亜麻禰、先に海から上がって待っていろ。お兄ちゃんは、お父さんを連れて上がるから。一人で大丈夫だよな?」 「連れて上がっちゃったら、お父さん、海に還れないよ。」 「でも、放っておいて、どうするんだよ。」 「お兄ちゃん・・・忘れちゃったの?」 亜麻禰は寂しそうな顔で訴える。 「何を?」 「お母さん、お墓って作り物じゃない。中にお母さんはいってないでしょ。お母さんは、お父さんが海に投げ込んだじゃない。」 亜麻禰に言われて思い返す。 ああ・・・そうだ。 あの時僕は気が動転していて今まで忘れてた。 遺言だからと、僕の手から母さんを抜き取って・・・。 父は海深いところまで母さんを連れて泳いで・・・ そのまま。 「どうして、亜麻禰はそんなこと覚えてるんだ?」 震える声が訊く。 「知らないよ。けど、亜麻禰はずっと見てたから。」 亜麻禰はそう言って微笑んだ。 では・・・と父をそこに放って岸に向かう。 よく考えたら、これは犯罪なのではないだろうか。 遠く聞こえるパトカーのサイレンに体が震える。 ああ、そうか。 脱獄した父を捜しているのだ。 「亜麻禰、早く家に帰るぞ!」 僕は慌てて亜麻禰を抱きかかえ家に戻った。 あんなとこだとすぐ見つかってはしまわないだろうか? 父が、身勝手な警察に引き上げられないことを願いながら、僕は亜麻禰と一緒に風呂に入った。 僕たちが海に行ったことがばれないように。 服も髪の毛も体中全部洗って。 海の匂いが残らないように。 僕は、本当は海のことが好きなのかもしれなかった。父が母さんを愛していたから。
-Blue ocean-
海は、今日も綺麗だ。 明日もきっと綺麗だ。 海は静かに僕らを見守っている。 永遠(とわ)に。 亜麻禰は中学生になった。 近くの中学に通っている。 亜麻禰はいつも僕が帰ってくるのを待ってくれている。 「おかえりなさい、お兄ちゃん。」 「ただいま、亜麻禰。遅くなって悪いな。」 僕のそんな言葉に亜麻禰は苦笑する。 「今更何言ってるの。いつものコトじゃない。」 何も言えず狼狽えると、亜麻禰は僕の手を引いて、 「ごはん出来てるから、早く座って。」 と言って、椅子に座らせた。 亜麻禰はごはんの盛りつけを済ませると自分も椅子に座りおだやかな表情で僕を見つめた。 波の音が聞こえる。 「お兄ちゃん、ごはん食べたら・・・外行こうよ。」 亜麻禰はそう言って、箸を取った。 「そうか。今日は母さんの・・・。」 僕の呟きに亜麻禰は微笑む。 僕も黙々と箸を動かせた。 食べ終わると片づけもそこそこに二人で海に出た。 今日も変わらず海は綺麗で、やっぱり月も綺麗だった。 「お兄ちゃん、お母さんもお父さんも元気かな?」 死んだ者に元気も何もないが、亜麻禰はそう本気で訊いてきた。 「元気だろ。」 苦笑混じりでそう言った。 「お兄ちゃん、私、両親が居ないからっていじめられちゃったよ。でもね、元気なの。だから、心配しないでね。だから、お兄ちゃんはずっと亜麻禰と一緒に居てね。」 亜麻禰はそう言って、僕の肩に寄りかかった。 波の音が聞こえる。 「兄ちゃん、亜麻禰のとこ以外に何処に行けば良いんだ?」 そう言うと、亜麻禰はにっこり笑った。 「一緒に・・・海に還ろう。」 亜麻禰はそう呟いた。 「・・・今のは、そう言う意味か。」 「家族みんな一緒のが幸せだよ。」 亜麻禰は僕の腕に巻き付く。 僕は立ち上がると亜麻禰を抱いて海に歩み寄った。 「本気だよな?」 確認のために訊く。 亜麻禰は無言で頷いた。 「そうか。」 もう、話すことはなかった。 波の音がすぐ近くに聞こえる。 海風が顔を撫でて去って行く。 海は還ったのだ。 たった一つの自分の場所に。 うへー・・・恥ずかしい。 |